南禅寺のこと
正応4年(1291年)に、亀山法皇が離宮であった「禅林寺殿」を禅寺として改める。 開山として迎えた大明国師 (無関普門)は高齢で、その年のうちに遷化(亡くなること)してしまうが、その後もその時代ごとに傑出した禅僧が入寺し京都五山の第一とされ、後には別格として第一の上に位置される。 亀山法王が南禅寺の前身である「禅林寺」建立時に、願いや定めを書いたものが『亀山天皇宸翰』として国宝に指定されている。
2度の火災や応仁の乱で、当時の堂宇は焼失し荒廃する。 江戸時代になると、徳川家康の側近である「金地院崇伝」が塔頭を構え、徳川の後援もあって堂宇の再建がされる。 徳川幕府とも関係の近い、小堀遠州による作庭や狩野派による障壁画などが残る。
国宝『方丈(大方丈・小方丈)』
小堀遠州作と伝わる「虎の児渡しの庭」に面する「大方丈」と、その後方に「小方丈」が続いている。 大方丈は、天正年間(1573~1591年)に造営された御所の清涼殿を、慶長16年(1611年)に移築したとされるが、清涼殿ではなく女院御所だとする説もある。 小方丈は、伏見城の遺構を寛永年間(1624~1644年)に移築したとされる。
大方丈は、庭に面する南側に、麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)が、壁を挟んで反対の北側に、鶴の間、内陣、鳴滝の間がある。 東西には細長い部屋があり東は「柳の間」、西は「狭屋の間」がある。 小方丈は東西の庭に向いており、西側の如心庭に向いた部屋は「虎の間」で、探幽による群虎図が描かれる。
内部にある124面もの障壁画は全て狩野派によるもので、重要文化財に指定されている。 障壁画には御所として使用されていた時代に描かれたものもあり、室町時代の狩野元信、信長や秀吉に重用された狩野永徳、江戸幕府の御用絵師となる狩野探幽と、時代の異なる狩野派の作品がみられる。 障壁画は一部に剥落などの劣化ががみられ、2011年には124 面中の84面が収蔵庫に移され、高精細復元の摸本で公開されている。
この国宝を観るには
年末(12/28~31)以外は一般向けに拝観受付をしている。
8:40~17:00(冬期11/30~3/1は~16:30)
文化財指定データ
【台帳・管理ID】102-1639
出典:国指定文化財等データベース一部抜粋
【指定番号】00145
【種別】近世以前/寺院
【指定名称】南禅寺方丈
【ふりがな】なんぜんじほうじょう
【員数】1棟
【時代・年】天正年間(1573~1591年)
【構造・形式】大方丈及び小方丈よりなる
大方丈、内陣、御昼の間、鳴滝の間、麝香の間、鶴の間、西の間、柳の間、
六畳、狭屋の間、広縁より成る、一重、入母屋造、こけら葺
小方丈 虎の間 三室、九畳、六畳、二十畳、広縁よりなる、一重、
背面切妻造、前面大方丈に接続、こけら葺
【所在地】京都府京都市左京区南禅寺福地町
【国宝指定日】1953.11.14
鑑賞ログ
2019年8月
禅宗の方丈というと地味なイメージでしたが、こちらは全ての障壁画が狩野派ということで、目玉はそちらかなという感じです。 部分的には複製画もありましたが、現物が残る部屋もあり、これだけのクラスの障壁画が元の場所で観せて頂けるのはとても貴重だと思います。