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情報|東京国立博物館「旧嵯峨御所 大覚寺」2025/1/21~3/16

情報-博物館・美術館

大覚寺のこと

京都・嵯峨野の大沢の池に面して建つ大覚寺は、桓武天皇の皇子で次々代に即位した嵯峨天皇が離宮を営んだことに始まります。 この大きい大沢の池は、なんと嵯峨天皇が離宮の庭園に造営した人工池なんだそうです。 お月見の時には龍頭鷁首舟で平安貴族気分を味わうことができますよ。

嵯峨天皇の御世に飢饉と疫病が蔓延したことがあり、空海の勧めによって嵯峨天皇がこの地で般若心経を書写すると疫病が収まったのだそうです。 書写が行われた嵯峨院を前身とする大覚寺に現在も伝わり、60年に1度だけ開かれる勅封の般若心経があり、最近では2018年に一般公開されました。 

嵯峨院はその後、嵯峨天皇の皇女で淳和天皇の皇后になった正子内親王の発願によって、淳和天皇と正子皇后の皇子の恒貞親王(恒寂入道親王)が開山となり大覚寺が開かれました。

その後は門跡寺院として皇族が代々の住職を務め、鎌倉時代には後宇多法皇が大覚寺で院政を執っています。 後の南北朝につながる両統迭立時代には、後宇多天皇の父で先代の亀山天皇の系譜が「大覚寺統」と称されることになります。

その後、応仁の乱から戦国時代にほとんどの堂宇を消失しますが、後陽成天皇の同母弟の空性法親王が門跡となり再興されました。

大覚寺
大覚寺
大覚寺五大堂から見る大沢池

旧嵯峨御所 大覚寺 展

第1章 嵯峨天皇と空海

大覚寺は応仁の乱~戦国時代にほとんどの伽藍を消失していて古い建物は残っていませんが、古い時代のものでは平安時代末に作られた重要文化財「五大明王像」や空海筆という伝承の伝わる8世紀に書かれた「金光明最勝王経」などが公開されます。

第2章 中興の祖・後宇多法皇

後宇多天皇は後醍醐天皇の父君であり、この時代の天皇の書は和様に中国風を取り入れた宸翰様(しんかんよう)と呼ばれる様式で、書の評価も高い後宇多天皇の2つの国宝の書が公開されます。 国宝以外にも後宇多天皇筆の重要文化財が3点あり、「灌頂印明」は前後期で1巻ずつ、「護摩口決」と「灌頂私注」は前期に公開されます。

第3章 歴代天皇と宮廷文化

代々皇族が門跡を務めた大覚寺には、天皇や高位の公家だけでなく、有力武将からの文書なども多く伝わっています。 室町時代の能筆な皇族や公家が何名かで書写した「大覚寺本」と呼ばれる源氏物語が公開されるのが楽しみです。 明治時代に大覚寺にもたらされた源氏の重宝である太刀の「名物 薄緑(膝丸)」は、北野天満宮に伝わる同じく源氏ゆかりの名刀「太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸、髭切)」と供に公開されます。

第4章 女御御所の襖絵

江戸時代初期の寛永年間には空性法親王によって伽藍が整えられました。 大覚寺の中心的な建物である宸殿は、東福門院和子皇后の女御御所を移築したもので、空性の甥にあたる後水尾天皇から下賜されました。 その時に、京狩野の初代となる狩野山楽が多くの障壁画を手掛けています。 今回の展覧会には狩野山楽や渡辺始興らの障壁画が前後期あわせて120面以上公開されます。 

この展覧会で観られる国宝

国宝『後宇多天皇宸翰弘法大師伝』[大覚寺/京都]

前期(1/21~2/16)

真言密教に深く帰依して弘法大師空海にも心を寄せていた後宇多天皇が、空海の事跡を自ら選んだ文章で書いたものです。 巻末には「正和四年三月二十一日」とあり、これは空海の命日にあたります。

国宝『後宇多天皇宸翰御手印遺告』[大覚寺/京都]

後期(2/18~3/16)

遺告(ゆいごう)は、高僧が亡くなる前に、弟子達に守るべきことや心得を書き残すもので、元亨元年(1321年)に後宇多天皇の自筆によって、大覚寺の縁起の後に21ヶ条が書かれています。  

展覧会 概要

日程:2025/1/21~3/16
休館:月曜日(2/10と2/24は開館)、2/25
時間:9:30~17:00(入館は30分前まで)※金土も17時までです
料金:一般¥2,100、大学生¥1,300、高校生¥900

東京国立博物館 公式サイト
旧嵯峨御所 大覚寺 展 特設ページ

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