慈照寺(銀閣寺)銀閣[京都]

慈照寺(銀閣寺)銀閣[京都]

足利義政と東山山荘

わずか8歳で室町幕府の8代将軍になった足利義政には後嗣がなく、弟で浄土寺の門主だった義尋を「義視」として後継にすると、間もなく正室の日野富子に後の9代将軍「義尚」が生まれる。 この後継争いは、各派についた大名の勢力争いにもなり、十数年にも渡り都を焦土化した「応仁の乱」につながる。

慈照寺 庭園の高台から見た国宝『銀閣』

政治より文化的なことに向くことが多かった義政は、応仁の乱後、実子「義尚」に将軍職を譲った後は、浄土寺の跡地に「東山殿」と呼ばれる山荘を造営する。 3代将軍義満の金閣寺に代表される華やかな「北山文化」に対して、後のわびさびにも通じる渋くスタイリッシュな「東山文化」の中心地となる。

国宝『銀閣』

慈照寺の観音殿が「銀閣」と通称されており、寺のことも「銀閣寺」と呼ばれることが多い。 東山殿では国宝『東求堂』の方が先にできており、遅れること3年で銀閣の造営が始まるが、義政は完成を見ることなく亡くなっている。 延徳2年(1490年)に義政が亡くなると、その菩提を弔うために東山殿を相国寺の末寺として寺に改め、義政の法号「慈照院」から慈照寺と名付けられる。

国宝『銀閣』慈照寺観音殿

2層(2階建)の1層(1階部分)は「心空殿」で、書院造という現代の和室にも通じる方式をしている。 2層は「潮音閣」で、華頭窓など禅宗の仏殿の特色が多く見られ、内外ともに黒漆が塗られていた。 屋根は宝形造りで現在は金閣と同じ鳳凰が載っているが、造営当初は宝珠だった。

国宝『銀閣』慈照寺観音殿

「銀閣」と呼ばれるようになったのは後世のことで、金閣のように銀箔を貼ろうとしたが財政難や義政の死で叶わなかった説や、黒漆が光ると銀のように見えたなど諸説あるが、最新の科学調査では銀箔が貼られた形跡はなく真相は不明。

拝観情報

夏期(3~11月):8:30~17:00
冬期(12~2月):9:00~16:30
料金:高校生以上¥500、小中生¥300

銀閣寺にある国宝

ご朱印

銀閣寺(慈照寺観音殿)ご朱印

ついでにグルメ

地方遠征での神社仏閣巡りは拝観時間とのタイムトライアルです。 団子<花(寺)という方は、銀閣寺参道「御米司ふみや」では、店先でかまど炊きご飯のおむすびが買えますよ。

銀閣寺参道「御米司ふみや」

店先では1つ¥250で数種類のおむすびが買えるので、哲学の道散策の途中やバス待ちにさっくり食べられます。 時間のある方は店の奥で¥1,500~2,100之ランチセットや、¥500から数種類のモーニングもあるようです。

銀閣寺参道「御米司ふみや」 焼きおにぎり

文化財指定データ

【台帳・管理ID】102-1644
【指定番号】00007
【種別】近世以前/住宅
【指定名称】慈照寺銀閣
【ふりがな】じしょうじぎんかく
【員数】1棟
【時代・年】長享3年(1489年)
【構造・形式】東面及び西面8.2m、北面7.0m、南面5.9m、二重、宝形造、こけら葺
【所在地】京都府京都市左京区銀閣寺町
【国宝指定日】1951.06.09
【説明】足利義政が自らの山荘・東山殿として建設したもの。敷地内には会所、常御殿に加え観音殿、東求堂(銀閣)などが設けられていたが、義政の死後慈照寺となった後、観音殿、東求堂以外は失われた。一階を書院造の要素の濃い住宅風、二階を禅宗様を基調とした仏殿風にしつらえる。金閣とならぶ楼閣建築の双璧。

鑑賞ログ 2018年11月

小学校の修学旅行で来て以来、何度も来ている銀閣寺ですが、紅葉の時期は初めてです。 色とりどりの木々の合間から見る黒い銀閣がとてもオシャレでした。

国宝『銀閣』慈照寺観音殿

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