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情報|海門寺「十一面千手観音ご開帳」2024/10/26~11/10[石川]

国宝じゃないけど

石川県七尾市・海門寺「十一面千手観音ご開帳」

こちらの観音様は国の重要文化財なのですが、大変由緒ある観音様のご開帳の情報を頂きましたので、「国宝じゃないけど」のコーナーでご紹介させて頂きます。 

七尾は牡蠣やナマコなどの海産物やお米など美味しいものの宝庫ですし、9/1〜11/30には「石川県の北陸応援割・第3弾」が実施されていて旅行代金が50%OFF(上限2万円)になるプランもあります(10/9時点ではクラブツーリズムとびゅうに少し残枠あり) 金沢からは電車で1時間ほどと、金沢を起点にちょっと足を延ばすのにちょうどいいのではないでしょうか。

海門寺のこと

能登島を囲むように広がる七尾湾に面した七尾市大田町の古刹「海門寺(かいもんじ)」は、創建についての詳しいことは分からないようですが、室町時代に能登の守護職だった畠山氏によって再興され伽藍が整えられました。 戦国時代に上杉謙信に攻められて七尾城が落城した時に海門寺も伽藍の大半を焼失しますが、この時に観音堂だけは消失を免れたので、今回ご開帳される観音様が今に伝わりました。 その後、前田利家が鷹狩の時に立ち寄って寺の由緒を聞き寄進をして、それ以降前田家の祈願所となり、寺紋は前田家の梅鉢紋が使われています。

アクセス

自家用車:国道160号線で大田八幡交差点から2分、七尾駅から約10分
公共交通:JR七尾駅前からバス10分+徒歩(徒歩だと約1時間)

崎山線「海門寺」バス停下車徒歩2分
七尾駅発:13:30、17:30
海門寺発:8:20頃、11:00頃
※崎山循環線は、大田八幡から先が右回りと左回り1日各2本です。

崎山線「大田八幡」バス停下車徒歩10分
七尾駅発:7:20、10:00
大田八幡発:14:32、18:32
※この時刻のルートだと、大田八幡バス停から海門寺バス停まで50分かかります。
 大田八幡で降りて歩きましょう。

脇線「大田八幡」バス停下車徒歩10分
七尾駅発:8:30、12:00、15:00、17:00、18:00
大田八幡発:6:57、9:42、13:12、16:12、18:12

※バス時刻は土日祝ダイヤです。10/28(月)に乗車する場合は時間が異なります。

ご開帳情報

観音様のご開帳は33年に1度のことが多いですが、これは観音経で観音様が三十三の姿で衆生を救って下さると説かれていることによるもので、清水寺や石山寺の観音様のご開帳も33年に1度です。 海門寺の観音様も33年に1度で、前回のご開帳が2003年にあり、次のご開帳までの中間に行われる「中開帳」が2020年の予定でしたが、新型コロナの流行で延期されていたようです。 今回は、2012年の重要文化財指定を記念したご開帳以来で、能登半島地震の犠牲者追悼と早期復興を祈念する12年ぶりの特別ご開帳です。

ご開帳の日程

日程:10/26(土)27(日)28(月)
   11/2(土)3(日)4(祝)
   11/9(土)10(日)
時間:10:00~16:00

期間中の行事

初日御開扉法要(能登半島復興祈願併修)
10/26(土)10:00~

夜間特別拝観(大念珠繰り、坐禅体験ほか)
11/3(日)9(土)19:00~20:00

禅羽鶴(ぜんばづる)奉納
観音堂内に、ご供養や願い事を参詣者にお書きいただいた折り鶴をつるします

特別御朱印頒布あり

重要文化財「木造千手観音坐像」

海門寺の十一面千手観音菩薩像は、平安時代末の保元3年(1158年)に針葉樹の一木造りで作られ、薄い衣にすっきりとした体つき、穏やかな表情がいかにも院政期らしい上品な仏様です。 1本の木を彫って作る一木造りでは、木材の割れを防ぐために背中から内部を彫って空洞化する内刳がされることがあり、この像の内刳からは制作の由来などを書いた銘が見つかっています。 それによると、仏像の本体部分は能登国(地元の石川県北部)の霊木で作られ、頭上の十一面などは出羽国(山形県)立石寺の慈覚大師の霊木やそのほか所々の霊木を、脇の手には能登~越中(富山)の霊木を使って作られたという実にありがたいもの。 900年にわたって能登の人たちの信仰を集めた観音様です。

重要文化財「千手観音坐像」海門寺

文化財指定データ

【指定番号】3587
【種別】彫刻
【指定名称】木造千手観音坐像
【ふりがな】もくぞうせんじゅかんのんざぞう
【員数】1躯
【時代・年】保元3年(1158年)
【ト書】像内に保元三年、大仏師僧□(寂)勝、本躰御身能登国阿□□□霊木等の銘がある
【所有者】海門寺
【重文指定日】2012.09.06
【説明】銘文により立像換算での三尺五寸像として造られたことが知られる千手観音坐像で、針葉樹材の一木造になる。現在素地を表しており、当初の仕上がりは詳らかでない。
 躰部内刳面の墨書銘には、本躰御身に能登国阿□□□の霊木を、小面十五躰(頭上面に頭上および脇手の化仏等を加えた数か)に出羽国立石寺慈覚大師霊木ならびに所々の霊木を、脇手に能登越中間千本霊木を用いて保元三年七月から十月にかけて造ったことに加え、願主平氏市井頼行および散位平□【(如)】綱紀氏と大仏師僧□【(寂)】勝、小仏師二名、結縁僧達の名前が記される。慈覚大師霊木は円仁の東北巡錫【じゅんしゃく】伝説の広まりをうかがわせ興味深い。
 能登国衙【こくが】からほど近い地に伝来し、願主らは在庁官人であった可能性がある。用材の調達には能登・越中を行動範囲とする山岳修験者の関与が想像され、国衙近辺の信仰と彼らの活動のかかわりの中で造立されたととらえることができる。
 定朝様【じょうちょうよう】にのっとった優美な像容を示すが、脇手が大きめな全体観は古風で、割首をせず、両足部材を腰脇前半まで含んで造る構造にも前代の風がとどめられている。
 他地域より集めてきた霊木を御衣木【みそぎ】とする造像例として知られるのは貞応三年(一二二四)より寛喜元年(一二二九)にかけて湛慶【たんけい】が二親のために造った地蔵十輪院丈六阿弥陀像で、高野山や葛川で加持を施した木が用いられた(『来迎院文書』)。また寿永二年(一一八三)に運慶らを願主として書写された法華経(『運慶願経』)は横川など三か所より調達した霊水を硯水【けんすい】として如法経【にょほうきょう】書写の作法により書写され、軸木には「霊木之中極霊木」として東大寺焼失柱の残りが用いられている(奥書)。霊木を集めて用材とするのも如法意識によるものであろう。造像における如法意識は一二世紀末ころに高まりをみせるが、そのような意識による早期のしかも顕著な造像例として注目される。当代の造像儀礼および地方造像の在り方を考える上で重要な作例である。

出典:国指定文化財等データベース一部抜粋

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