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国宝-建築|中尊寺 金色堂[岩手]

国宝DB-建築

中尊寺のこと

中尊寺は、最澄の弟子で天台座主3世になった「慈覚大師円仁」によって開かれ、最も栄えたのは奥州藤原氏3代(清衡・基衡・秀衡)によって堂宇が整えられた平安時代後期。 東北地方では「前九年の役」「後三年の役」の戦乱が終わり、平和の訪れた奥州を治めることになる初代の清衡が、戦死者の鎮魂の意味もあって、建立を始めたといわれる。

長治2年(1105年)に中尊寺の前身となる多宝寺が造営され、清衡の晩年には主だった堂宇が建ち揃う。 2代の基衡は毛越寺、基衡の妻が観自在王院、3代秀衡は無量光院と、一族が平泉の地に寺院を建立し、3代100年の栄華を極める。 

秀衡がかくまった義経を4代の泰衡はかばいきれず、義経はこの地で自害し、その後に泰衡も攻められ奥州藤原氏は4代で滅亡する。 庇護者をなくした中尊寺は荒廃し、建武4年(1337年)の火災によって主だった堂宇を焼失するが、字残った堂宇や寺宝は守り伝えられ、平成23年(2011年)には世界遺産に登録された。

国宝『金色堂』

金色堂は、天治元年(1124年)に初代清衡によって建立された、桁行・梁間とも3間ずつに、宝形造の屋根を乗せた仏堂。 金色堂の名の通り、建物の内外から木製の瓦まで、金箔で覆われている。 内陣の柱や須弥壇は、南洋の夜光貝を使用した螺鈿細工が施されている。

金色堂は、4代に亘って奥州藤原氏の墓堂となっており、中心の1間には初代清衡、左右の奥には2代基衡と3代秀衡の、ミイラ状になった遺体が安置されている。 基衡と秀衡の埋葬位置や、遺体が自然にミイラ化されたか加工があったかなど、諸説にわかれる。 内部に設置された『中尊寺金色堂堂内具』も現存し、国宝に指定されている。

中尊寺金色堂 復元模型[東北歴史博物館]

正応元年(1288年)には、鎌倉幕府によって修復され、覆堂がかけられたことが記録に残る。 覆堂は、建立後50年ほどで簡易なものがかけられ、その後いく度かの修復を経て、室町時代頃には現存する旧覆堂の形式になったと考えられる。 昭和38年(1963年)に、現在のコンクリート造の覆堂が建てられ、旧覆堂は金色堂から奥まった現在地に移築された。

中尊寺 金色堂の覆堂
中尊寺金色堂 旧覆堂

この国宝を観るには

中尊寺の境内は無料だが、金色堂・讃衡蔵(宝物館)・経蔵・旧覆堂は、有料拝観になっている。

中尊寺 公式サイト

文化財指定データ

【台帳・管理ID】102-109
【指定番号】00001
【種別】近世以前/寺院
【指定名称】中尊寺金色堂
【ふりがな】ちゅうそんじこんじきどう
【員数】1棟
【時代・年】天治元年(1124年)
【構造・形式】桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦形板葺
【附指定】棟札2枚、納札1枚、旧組高欄6組、古材6点、旧飾金具2点
【所在地】岩手県西磐井郡平泉町平泉
【国宝指定日】1951.06.09

出典:国指定文化財等データベース一部抜粋
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