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国宝-彫刻|速玉大神・夫須美大神・家津御子大神・国常立命坐像[熊野速玉大社/和歌山]

国宝DB-彫刻

国宝 木造神像4躯

熊野速玉大社には、平安時代に作られた神像が7体あり、その内の4体が2005年に国宝に指定されている。 残り3体も重要文化財に指定されている。 桧の一木造で表面には彩色がされており、服装髪形などは当時の貴人のようである。

和歌山県立博物館「きのくにの名宝」チラシより「熊野速玉大神坐像」

熊野速玉大神坐像

坐像だが1mを超え人間よりも大きく作られているが、これは神の超越した力を表すものだと考えられる。 腹のあたりで拱手(両袖口を合わせ手を見せないようにする)をして、頭には閻魔大王のような宝冠をかぶっている。 あご髭をたくわえ、威厳のある表情をしている。

夫須美大神坐像

速玉大神像と同程度の大きさで作風も似ているので、同人あるいは同工房の作だと考えられる。 やや高い胸の位置で拱手しており、ゆったりした衣に髪は下ろしているが頭頂部に髷のようなふくらみがある。 ふくよかで穏やかな表情をしている。

家津御子大神坐像

速玉大神や夫須美大神より小型で、等身大程度の大きさで作られている。 顔立ちがはっきりとキリリとしており、頭には帽子のようなものをかぶっている。 夫須美大神と同様のポーズで、胸のあたりで拱手をしている。 他の像よりも衣の線が曲線的である。

国常立命坐像

家津御子大神と同程度の等身大の大きさだが、耳の特徴が速玉大神に似ているため、同人または同工房の制作だと考えられる。 破損が激しく、頭部は残るが退部は全面が削げたようになっている。 岡倉天心が創設した、日本美術院国宝修理所での、第1号の修理品である。

熊野速玉大社の国宝

古神宝類 一括

公開履歴

2024/12/7~2025/1/19 和歌山県立博物館「熊野信仰の美と荘厳」
2021/10/16~11/23 和歌山県立博物館「きのくにの名宝
2019/4/27~6/2 和歌山県立博物館「仏像と神像へのまなざし」

文化財指定データベース

【台帳・管理ID】201-10615
【指定番号】00127-0
【種別】彫刻
【指定名称】木造熊野速玉大神坐像/木造夫須美大神坐像/木造家津御子大神坐像/木造国常立命坐像
【ふりがな】もくぞうくまのはやたまおおかみざぞう/もくぞうふすみのかみざぞう/もくぞうけつみこおおかみざぞう/もくぞうくにとこたちのみことざぞう
【員数】4躯
【国】日本
【時代・年】平安時代
【所有者】熊野速玉大社
【国宝指定日】2005.06.09
【説明】熊野三所とされる熊野速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三神に国常立命を加えた四神で、いずれも平安時代前期の作である。男女神である前二像は等身を超える大型、後二像は等身の大きさとなる。当社のこのほかの諸神像は平安時代後期および鎌倉時代に下る作であり像高もさらに小さいので、神格により製作時期に違いがあり、大きさにも差がつけられていることがわかる。
 熊野速玉大神と夫須美大神がまとう宮廷官人および女官の装束は初期神像に共通するが、当時一般的な等身よりも大型なのは通行を超えた神格であることを表すものかと推定される。両手は笏を執るかまたは拱手とし、また跪坐あるいは片膝立ての坐法とするなどは、定式化せず古式を表すものかと考えられる。
 いずれも完全な一木造で、古写真によれば像底に大きな朽損のあるものがあり、像底を石膏で埋めた現状から判断して四体とも同様な状態だったらしい。熊野速玉大神の被る宝冠は神仏習合的な要素であるが、その宝冠に描かれる大振りな唐草文様は当麻寺板光背(重文)の彩色文様に似たものがあり造像当初のものとみられる。文様の下に見える別の墨描唐草文様は全面的なものではないので、使われなかった下描きと推測される。
 熊野速玉大神は大きく見開いた目、長くたくわえられた顎鬚などの偉丈夫の雄姿で、これに対する夫須美大神は豊かな肉体ながら威厳ある風貌である。家津御子大神は引き締まった精悍な顔立ちであり、国常立命は若々しい相貌で悠揚迫らぬ趣がある。これほど気宇壮大な神像群は他に例を見ない。熊野速玉大神と国常立命の各耳の彫法が互いに類似しており、また像容もともに雄大な風格を表すので、相通じる作風の夫須美大神を入れて同時期、同系工人の作と考えられる。一方の家津御子大神は引き締まった彫りをするところに特徴があり、別手とみられる。前者のなだらかな衣文に対し後者のそれが深く鎬【しのぎ】立つのも、工人の違いを示しているように推定されるが、製作時期が大きく異なるほどの違いではないだろう。熊野速玉大神の大きく見開いた目や強く結ばれた唇などが、九世紀末から一〇世紀初めとされる法輪寺十一面観音像(重文)に比べて、面相部の抑揚がやや平明になってはいるもののよく似ているのは、製作時期の近さだけでなく工人が仏師であったことを推定させる。
 当社は貞観元年(八五九)に従五位上に叙されて以来急速に神階を加え、延喜七年(九〇七)には従一位にまで昇り、その間、昌泰三年(九〇〇)に宇多法皇の行幸があった。これは当社に対する信仰が広まり中央にも知られる名神となったことによるものだが、そのような情勢を踏まえて祭神にも中央に遜色のない大型でかつ重厚な神像がつくられたという事情が本神像の製作の背景に考えられる。八世紀末から九世紀全般にかけては、わが国で初めて神像が成立しそれが各地に浸透していった時期に当るが、その最終段階に出現した雄偉でかつ理想的な神の姿といえる。 

出典:国指定文化財等データベース
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