国宝『東大寺 転害門』
奈良時代に、東大寺西端北寄りに建てられた門で、平家の焼き討ちや戦国時代の戦火からものがれ、東大寺では貴重な創建当時からの建造物。 焼討後の鎌倉時代に、重源らによって東大寺が再興された時に、転害門も大規模な改修を受けている。
門の前を南北に横切る道は、奈良と京都を結ぶ「京街道」で、この門から西に延びる道は平城京まで通じる「佐保路」と、交通の要所であった。 読み方は「てがいもん」で「手貝門」と表記される場合もあり、門前の交差点は「転害門前」だが、門前の住所は「手貝町」である。 他に、ここから西に向かう佐保路からの「佐保路門」や、景清の伝承に因む「景清門」の名もある。
3間(柱の間が3つ)の八脚門で、中央の1間が通路になっている。 屋根は「三棟造り(みつむねづくり)」で、現存する奈良時代の三棟造りは、この転害門と国宝『法隆寺 東大門』の2棟のみである。 三棟造りは屋根裏を張らず、桁行(正面から見て横の線)方向の中央柱の前後にそれぞれ棟があり、その平行に並んだ2つの棟を覆うように、屋根が乗せられている。
謡曲「大仏供養」
平家方の武将「平景清(藤原景清)」通称「悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)」は、源氏の世になってからも遺恨を晴らそうとしている。 源頼朝が東大寺を参詣すると知り、前日に若草山に住む母のもとを訪れてから、群衆に紛れ機会をうかがうが見破られる。 名乗りをあげてから兵とやりあうのをひとまずとして、姿をくらませる。
イベント・行事「転害会」
毎年10/5に転害門の基壇で、手向山八幡宮の祭礼「転害会(てがいえ)」が行われる。 手向山八幡宮は明治以前は東大寺の鎮守社だったので、東大寺の法要も行われる。 現在は東大寺所蔵で、元は手向山八幡宮の御神体であった国宝『僧形八幡神坐像』が年に一度だけ「勧進所八幡殿」でご開帳される。
この国宝を観るには
県道からやや奥まった位置にあり、常時見学可能。 東大寺のかなり端、正倉院の西に位置するので、東大門あたりからはかなり距離がある。 奈良交通バス「手貝町」バス停が近い。
文化財指定データ
【台帳・管理ID】102-2440
出典:国指定文化財等データベース一部抜粋
【指定番号】00058
【種別】近世以前/寺院
【指定名称】東大寺転害門
【ふりがな】とうだいじてがいもん
【員数】1棟
【時代・年】天平宝字頃
【構造・形式】三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
【所在地】奈良県奈良市雑司町
【国宝指定日】1952.03.29