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国宝-建築|二条城 二の丸御殿[京都]

国宝DB-建築

二条城のこと

徳川家康が、江戸幕府開幕2年前の慶長6年(1601年)に、御所の警備と京都での拠点として築城し、家康と豊臣秀頼の会見は二条城で開かれた。 2代将軍秀忠の娘で3代家光の姉にあたる和子は後水尾天皇に入内し、寛永3年(1626年)には後水尾天皇を二条城に迎える「行幸」が行われる。 その準備として2年前から天守閣の造営や御殿が整えられ、現在も残る狩野派による障壁画もこの頃に制作された。

その後、長く歴史の表舞台に登場しないが、幕末近くなると和宮が降嫁した14代将軍家茂の上洛で宿所となり、最後の将軍15代慶喜が二条城二の丸御殿で幕臣を集め大政奉還の意向を伝えるなど、江戸幕府の歴史的な出来事が多くあった。 明治に入ると京都府庁が置かれ、明治17年(1884年)には皇室の別邸となり、江戸末期に焼失していた本丸跡に桂宮邸を移築し、大正天皇の即位礼の時には二条城で饗宴が開かれた。 昭和14年(1939年)京都市に下賜され、現在に至る。

国宝『二の丸御殿』

内堀で囲まれた本丸の東側に位置し、慶長年間の築城時と、寛永の行幸で増改築された建物が残る。 二条城は、江戸時代中期の何度かの火事で、天守や本丸を焼失しているため、徳川時代の遺構は二の丸御殿のみとなる。 寛永の造営では、多くの大名が協力する天下普請となり、作庭でも有名な小堀遠州が奉行をつとめている。

二の丸御殿は、いくつかの棟がカギ型に並んで構成され、南東端に南を向く玄関「車寄」があり、入るとすぐに来訪者の待合に使われた「遠侍」、北西に向かって「式台」「大広間」が続き、廊下に蘇鉄が描かれる「蘇鉄の間」の先に、小広間とも呼ばれる「黒書院」、その北に将軍のプライベート空間である「白書院」が続く。

二の丸御殿には954面の障壁画があり、探幽をはじめとする江戸の狩野派と、山楽や山雪ら京狩野派と、狩野派が総動員で制作にあたっている。 昭和から平成にかけて障壁画の模写を行い、現物は収蔵館に保管され、年に4回の展示替えで1度に30面前後が公開される。

国宝『二条城 二の丸御殿』
国宝『二条城 二の丸御殿』車寄
国宝『二条城 二の丸御殿』

この国宝を観るには

現在は、二条城は京都市の施設として有料で公開され、二の丸御殿と庭園か、庭園のみの入場かで料金が異なる。 外観のみなら庭園入場で観ることができる。

年末3日間は全て休園、休演日に加えて年末年始の3日ずつと、オフシーズンの火曜日は二の丸御殿が休館になる。 拝観時間も季節によって異なるので、注意が必要。

二条城 障壁画 展示収蔵館

文化財指定データ

【指定番号】00075
【種別】近世以前/住宅
【指定名称】二条城
【ふりがな】にじょうじょう
【時代・年】慶長7~8及び寛永2~3
【所在地】京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
【国宝指定日】1952.03.29

【台帳・管理ID】102-1701
【棟名】二の丸御殿遠侍及び車寄
【ふりがな】にのまるごてんとおざむらいおよびくるまよせ
【員数】1棟
【構造・形式】遠待:桁行八間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺
       車寄:桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺

【台帳・管理ID】102-1702
【棟名】二の丸御殿式台
【ふりがな】にのまるごてんしきだい
【員数】1棟
【構造・形式】桁行正面三間、背面五間、梁間右側面四間、左側面六間、一重、入母屋造、本瓦葺

【台帳・管理ID】102-1703
【棟名】二の丸御殿大広間
【ふりがな】にのまるごてんおおひろま
【員数】1棟
【構造・形式】桁行右側面八間、左側面七間、梁間正面七間、背面五間、一重、入母屋造、本瓦葺

【台帳・管理ID】102-1704
【棟名】二の丸御殿蘇鉄之間
【ふりがな】にのまるごてんそてつのま
【員数】1棟
【構造・形式】桁行右側面八間、左側面九間、梁間正面一間、背面三間、一重、入母屋造、本瓦葺

【台帳・管理ID】102-1705
【棟名】二の丸御殿黒書院(小広間)
【ふりがな】にのまるごてんくろしょいん(しょうひろま)
【員数】1棟
【構造・形式】桁行正面七間、背面八間、梁間右側面六間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺

【台帳・管理ID】102-1706
【棟名】二の丸御殿白書院(御座の間)
【ふりがな】にのまるごてんしろしょいん(ござのま)
【員数】1棟
【構造・形式】桁行六間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺
【附指定】附属之間、黒書院白書院間渡廊

出典:国指定文化財等データベース一部抜粋

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