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鑑賞ログ|興福寺 中金堂

国宝じゃないけど

2019年春、JR東海の「うましうるわし奈良」キャンペーンは、昨秋に落慶法要を迎えた興福寺の中金堂です。「中金堂」ってあまり聞きなれない名前ですが、お寺の本堂である「金堂」が複数あったために、中心にある金堂ということで「中金堂」と呼ばれたようです。

ただ、この中金堂は江戸時代中期に火災にあい、その後は100年も再建されなかったんだそうです。 やっと再建されたものも(仮)で建てられたもので、2000年には老朽化のため解体されました。 そして1000年もつ中金堂が、2010年から着工され、2018年秋に落慶法要を迎えたんだそうです。

関係者のみの法要は、屋根から散華(蓮の花びらをかたどった色紙)が撒かれたりと、荘厳な天平絵巻だったようです。 間もなく一般公開もされ、現在はそれほど混まずに拝観できるようになっています。

興福寺「中金堂」

この巨大な建物には柱が66本もあって、その内64本が奈良時代に創建された当時の「礎石」の上に建てられています。 1300年と同じ場所・同じ大きさで建てられてるって、すごいですよね。 ただ、柱になる大木が日本ではすでに手に入らず、アフリカから運ばれたんだそう。 これも1000年後くらいに文化財調査されると「平成時代には海外との交易で巨大な材木を運んでいたことがわかる」とか書かれるんでしょうか。

下の屋根は「裳階」で、上部には「鴟尾(しび)」がつく

屋根が2つありますが、下の屋根は「裳階(もこし)」と呼ばれる雨風除けの装飾屋根で、中は広い空間になっています。 この2層の屋根に使われた瓦は70,000枚以上! 寄棟造りという、これも奈良らしい屋根の形で、両端には「鴟尾(しび)」と呼ばれる金色の装飾が付いています。 これは中国から入った文化で、平安時代には日本ではあまり使われなくなりますが、お城の「しゃちほこ」は、これを模したものという説もあります。

興福寺「中金堂」本尊の右前の柱が「法相柱(ほっそうちゅう)」

外から撮った写真をアップにすると少し見えますが、扉の内側にある柱のうち、本尊の右前にある柱に極彩色で僧侶の絵が描いてあります。 これは「法相柱(ほっそうちゅう)」と呼ばれるもので、いつからかは不明ですが室町時代頃まであったものだそうです。 興福寺の宗派「法相宗(ほっそうしゅう)」の祖師14人の姿が描かれています。 ただ、存在の記録があっただけで、どんな絵だったかの記録がなく、日本画科の畠中光享氏が新たに描かれたようです。

興福寺は境内の通り抜けは無料なので、お金を出さなくても比較的近くで観ることができますが、大人¥500で中に入ることができます。 写真撮影NGなので、頂いたパンフレットのみですが、中には9体の仏像が安置されています。

興福寺「中金堂」パンフレット

真ん中の「中尊」は、興福寺のご本尊「釈迦如来像」です。 江戸時代に造られた5代目で、木造ですが金箔が貼られ金ピカに輝いています。 お寺は古い方がありがたい感じがしますが、この極彩色の空間で金ピカの像を眺めていると、創建当時はこんなだったのか、と感慨深いです。

釈迦三尊の脇侍(両脇に配置される像)は、「梵天・帝釈天」や「普賢・文殊菩薩」が多いですが、こちらは古い様式の「薬王・薬上菩薩」という兄弟の菩薩です。 名前の通り薬を施して菩薩になったんだとか。 

そして、このお堂には4体の国宝仏があります。 鎌倉時代の『四天王立像』で、お堂の4隅に他の仏像を護るように安置されています。 毘沙門天のポーズが、手に持った塔を高く掲げてそちらを見上げていて、ここまで高く掲げるのはちょっと珍しい気がします。

左右の脇侍前には2体の小ぶりな仏像があり、法相柱側は「大黒天」で、反対側は厨子に入った「吉祥天」です。 吉祥天は浄瑠璃寺の吉祥天のようにふっくら白いお顔できらびやかな衣。 私の訪問はお正月だったので拝見できましたが、時期によっては厨子が閉じられるようです。(お正月は「吉祥天供」で吉祥天の公開がたくさんあるんです) 大黒天は、よく見る「大黒さま」の姿とは異なり、スリムな姿に短い袴を履いてキリっとしたお顔です。 鎌倉時代の作なので、おそらく古い様式なんでしょう。

隣に建つ「東金堂」は室町時代の再建で、外側はすでに色彩がなく渋い建物に見えますが、屋根の内側などは彩色が残っています。 他の建造物も全てが中金堂のきらびやかさだったら、本当に人間世界じゃないように見えたんでしょう。 今の中金堂は、そんな想像ができる空間でした。 ぜひキレイなうちにご覧ください。

興福寺 公式サイト

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