當麻寺のこと
寺伝では、聖徳太子の弟「麻呂古王(まろこおう)」によって推古天皇20年(612年)に建立され、麻呂古王の孫「當麻国見(たいまのくにみ)」が役行者の領地である二上山の東に遷造し、寺名を「當麻寺」と改めて、當麻氏の氏寺になりました。
當麻寺の本尊は、奈良時代の貴族の姫君「中将姫」が一夜にして蓮糸で織りあげた「當麻曼荼羅」ですが、現代の調査では絹による綴れ織りで、日本または唐時代の中国で作られたと考えられています。 この曼荼羅は、真言宗に多く伝わる大日如来を中心とした曼荼羅図とは異なり、阿弥陀如来を中心に浄土の様子が表されていて、周囲の枠には説話が並ぶなど民衆にもわかりやすく、識字率の低い時代には絵解き説法に使われたのだと思います。
當麻寺の入口「仁王門」は境内の東端にあり、正面には當麻曼荼羅(現在は室町時代に作られた文亀本)を安置する本堂『曼荼羅堂』があり、その途中には右手に講堂、左手に金堂で、金堂の奥には手前に東塔、奥に西塔が並ぶという不思議な伽藍配置をしています。 古代寺院が好きな方ならもうお気づきだと思いますが、當麻寺の正面は元は南側だったのです。 當麻寺の南には、大和と河内を結ぶ主要道路「竹内街道」があり、東塔と西塔の間あたりの街道沿いが入口でした。 左右に東塔と西塔があり、正面にある金堂の奥が講堂というのは、薬師寺の伽藍配置と同じですね。 金堂の手前には、古代寺院ではお約束の石灯籠も残っています。 日本の寺院は、阿弥陀如来の浄土信仰が盛んになると、西方浄土を意識して、境内の西側に東向きの堂宇を建てるものが増えていきます。 曼荼羅堂も、かつては多くある堂宇の1つだったのでしょうが、信心する人が多くてこちらが本堂になってしまったようです。
もう1つ面白いのが、當麻寺には本坊(寺務を行う建物と組織)がなく、真言宗と浄土宗の支院が堂宇の管理をおこなっていることです。 善光寺も同じような形式で、あちらは天台宗と浄土宗ですね。 中将姫が剃髪したという真言宗の「中之坊」や、寺の最奥にある浄土宗の「奥院」が規模も大きく、それぞれ宝物館があるなど見どころが多いです。 子院までしっかり拝観すると、かなり時間がかかりますので、余裕をもったスケジュールにすることをおすすめします。 ちなみに私は、2時間で予定を立ててしまったので、伽藍と奥院だけで時間切れになり、中之坊の拝観をすることができなかたったので、またいつか訪問したいと思っています。
當麻寺で観られる国宝
本堂(曼荼羅堂)[建造物]
文化財の指定では、永暦2年(1161年)の建造となっていますが、内陣部分は奈良時代~平安時代の初期頃に作られたのだそうです。 古い建築らしく参籠ができるようになっていて、弘法大師空海が21日間の参籠をした場所が残っています。 中将姫の像など、見どころが多いお堂です。
当麻曼荼羅厨子[工芸品]
當麻曼荼羅の額縁のように作られた厨子で、本堂と同じ奈良時代~平安時代初期頃に制作されたと考えられています。 本堂の内部を参拝すると、かなり近づくことができますので、黒漆地に金銀泥で描かれた花鳥の模様など、細かいところまでじっくり観ることができます。 鎌倉時代の修理で足されたと考えられている扉は、現在は本体から外されて、奈良国立博物館に寄託されています。
東塔[建造物]
東塔と西塔が左右に並ぶ伽藍配置は、薬師寺など奈良時代頃の大寺院にみられますが、当時の両塔がそろって現存するのは當麻寺だけです。 東塔の方がやや古く、奈良時代に建てられています。 初層は3間(柱の間が3つ)ですが、2層と3層は2間になっていたり、水煙が魚骨形といわれる珍しい形なので、西塔と見比べて下さい。
西塔[建造物]
東塔より新しく平安時代初期に建てられたものですが、最近の修理で発見された白鳳時代(飛鳥~奈良時代)に遡る舎利容器や、水煙に未敷蓮華という白鳳期の流行がみられるので、初代の西塔は創建当時に建てられて、現在の西塔は2代目ではないかという説もあります。 修理が終わったばかりの美しい姿を観ることができます。
弥勒仏坐像[彫刻]
當麻寺が創建された頃に本尊として制作された像で、創建時の本堂であった金堂に安置されています。 お釈迦様の次(56億7千万年後)に悟りを開く弥勒菩薩ですが、悟りを開いた後の如来の姿をしています。 金箔が部分的に残る古い像に見えますが、実は金箔の下は「塑像(そぞう)」という土や粘土で作られた像なんです。 平安時代以降の仏像はほとんど木造になりますが、奈良時代頃までは塑像も多く作られていて、この像は日本最古の塑像です。 弥勒仏を守護する四天王像も古い時代のもので、髭を蓄えた渋い風貌の「イケオジ」なので、忘れずにご覧ください。
梵鐘[工芸品]
仁王門をくぐってすぐに見える鐘楼は、さりげなすぎてスルーしてしまいそうですが、中の梵鐘は本物の国宝です。 吊るされているように見えますが、実は下から支えられているそうで、鐘に亀裂があるため鳴らされることはありません。 制作年は不明ですが、當麻寺の創建頃に作られたと考えられているそうです。
當麻寺では観られない當麻寺の国宝
綴織当麻曼荼羅図[工芸品]
當麻寺の本尊でもある織物の曼荼羅図ですが、布製品は劣化が早いため、現在は奈良国立博物館に寄託されていて、めったにお目にかかることができません。 伝説では蓮糸で一夜にして織りあがったというものですが、実際は絹の綴れ織りで、高い技術から唐時代の中国で織られたという説もあるようです。
倶利伽羅竜蒔絵経箱(奥院)[工芸品]
當麻寺の子院で浄土宗の「奥院」に伝わる蒔絵の経箱で、平安時代に作られたものだそうです。 中央には、不動明王の持ち物「倶利迦羅剣」に龍が巻き付き、焔が取り巻いていています。 左右には制多迦童子と矜羯羅童子がいて、剣が不動明王を表しているんです。 東京国立博物館に寄託されていて、数年に1度は公開されています。
奈良国立博物館「中将姫と當麻曼荼羅」と當麻寺特別公開
當麻曼荼羅は長い歴史でいくつもの摸本(複製)が作られていますが、貞享3年(1686年)に完成した「貞享本」と呼ばれる絵画の修復を記念して、2022年の夏に奈良国立博物館で特別展「中将姫と當麻曼荼羅」が開かれます。 残念ながら根本本の公開はありませんが、當麻曼荼羅に関する国宝が集められるので、充実した展覧会になりそうです。
奈良国立博物館「中将姫と當麻曼荼羅」
通期
国宝『当麻曼荼羅厨子』厨子扉[當麻寺/奈良]
国宝『当麻曼荼羅縁起』前期は上巻、下記は下巻[光明寺/神奈川]
国宝『綴織当麻曼荼羅図』の「軸内納入文書」※曼荼羅図本体は公開なし[當麻寺/奈良]
前期(7/16~8/7)
国宝『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』巻第8[遊行寺/神奈川]
後期(8/9~8/28)
国宝『法然上人行状絵図』巻第6[知恩院/京都]
當麻寺での国宝特別公開
當麻寺 東塔・當麻寺 西塔 初層特別開扉
展覧会期間(7/16~8/28)の土日祝のみ、當麻寺の東塔・西塔の初層が開扉されます。 前回の公開は平城遷都1300年記念の2010年だったようで、とても珍しい機会ですので、行ける方はぜひこのチャンスを逃しませんように。 東塔・西塔とも、大日如来が安置されているようです。
当麻曼荼羅厨子 秘仏「裏板曼荼羅」ご開帳
當麻曼荼羅は、古い時代の修理で板に貼り付けられていた時代があり、江戸時代の修理で板から剥がされています。 この時に、繊維が残ってうっすら図像が残ったものが「裏板曼荼羅」と呼ばれています。 普段は厨子の裏扉が閉じられていますが、展覧会期間中は開扉されるようです。
ハチの巣になった仁王様
當麻寺の仁王門には、葛城市の文化財に指定された江戸時代の仁王様が安置されていますが、向かって右の「阿形」の仁王様の頭部がハチの巣になっていたのです。 口から出入りしていて、玉眼からはハチがうごめく様子が見えていました。
巣を作ったのは、現在では希少だといわれる「日本ミツバチ」だそうで、最初に巣を作ったのは20~30年も前からだそうです。 私がこれを撮影した2019年頃に話題になっていて、こちらの動画もいくつかのニュースで取り上げられました。
2021年には、頭部を外して巣を取り除いたそうで、約1万匹というミツバチ達は無事に引越できたようです。 ハチによる汚損だけでなく経年による損傷も大きくなっているようで、2022~2023年には阿形を、2024~2025年には吽形の解体修理が行われるそうです。
あと5年ほどで、修復から戻った仁王様2躯が揃って観られますよ。
當麻寺へのアクセス
奈良県の飛鳥地方と南大阪の間に横たわる山脈の麓に位置する當麻寺は、橿原神宮前と古市を結ぶ近鉄南大阪線のちょうど真ん中あたりにある「当」の字を使う「当麻寺駅」が最寄り駅です。 1時間に2~4本の電車があり、大阪阿部野橋からは約30分ほど、大和西大寺からは約1時間ほどです。 駅を降りて和菓子の中将堂さんの角を曲がれば當麻寺までは徒歩15分ほどの1本道で、やがて小高いところに建っている東塔・西塔が見えてきます。
ついでにグルメ
中将堂本舗の中将餅
お店の屋号が「中将堂」で、名物和菓子「中将餅」を売っている老舗です。 平たくした一口大のヨモギ餅にあんこが乗っていますが、このお餅が柔らかくてヨモギの香りが高くてとても美味しいのです。 冬季にはぜんざいなどのメニューも出るようですが、春~秋はテイクアウトもイートインも中将餅1品のみ
当麻寺門前 茶房ふたかみ
当麻寺の門前には何件かの飲食店がありますが、私が訪問した中途半端な時間には閉まっている店もあり、食事からお茶まで便利に使えそうな「茶房ふたかみ」に入りました。 暑い日だったので迷わず「冷やしそうめん」¥500をオーダー。 手延べの三輪そうめん使用ということで、キンと冷えた喉越しの良い素麺でした。