名刀 江雪左文字 展
福山城築城400年の記念協賛事業として開催される「名刀 江雪左文字」は、ふくやま美術館が所蔵する名刀「江雪左文字」を始めとする刀剣中心の展覧会です。 ふくやま美術館は、現在7口の国宝刀剣を所蔵しており、これは東京国立博物館に次ぐ数です。 今回は全ての国宝刀剣が出展され、その他にも2口の他館所蔵の国宝刀剣が加わった9口の国宝刀剣が並ぶという豪華な展覧会になっています。
刀剣はしばしば歴代の所有者「来歴」が重視されますが、今回公開される刀剣は、今年の大河ドラマ「どうする家康」の徳川家にまつわるものが多く含まれます。 築城400年の福山城も、江戸時代に入ってから家康の従兄弟の水野勝成が初代藩主として築城したもので、第二次大戦の空襲で焼失するまでは旧国宝に指定されていました。 戦後の再興のシンボルとして建てられた福山城とこの展覧会とで、福山の地と数々の刀剣の歴史に思いを馳せられそうです。
この展覧会で観られる国宝
太刀 銘 筑州住左(江雪左文字)[ふくやま美術館]
今回の展覧会のタイトルになっている太刀で、銘は「筑州住左」と入っています。 北条氏政の家臣だった「板部岡江雪斎」の所有だったために「江雪左文字」と呼ばれます。 江雪斎は、北条氏の後に豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従った武将で、この太刀は江雪斎から家康に献上されています。 家康から紀州徳川家の初代となる徳川頼宣(家康の10男)に渡り、その後は紀州徳川家に伝来しました。
短刀 無銘 正宗(九鬼正宗)[林原美術館/岡山]
相模国の名工「正宗」作の短刀で、銘は他の正宗の大半の刀剣と同様に入っていません。 元は小早川隆景の所有だったものを、九鬼守隆の弟が舞の褒美に授けられますが、後に関が原で西軍につき自害すると、東軍についた兄の所有となりました。
短刀 無銘 貞宗(名物 寺沢貞宗)[文化庁]
こちらも無銘の短刀で、正宗の実子または養子といわれる刀工「貞宗」の作です。 豊臣秀吉の家臣で後に家康に仕え唐津藩の初代藩主となる「寺沢広高」が所持したもので、享保名物帳では「寺沢貞宗」とされています。 寺沢広高から豊臣秀吉に献上され、織田有楽斎(信長の弟)を経て徳川秀忠の所有となり、秀忠の形見分けとして紀州徳川家に贈られました。
短刀 銘 国光(名物 会津新藤五)[ふくやま美術館]
こちらは正宗の師といわれる刀工「新藤五国光」による短刀で、国光は相州伝の始祖とされる人物です。 会津の蒲生氏郷が所持していた短刀で、享保名物帳には「会津新藤五」と記されています。 蒲生氏郷の後は前田家の所有になり、前田家から徳川綱吉に献上され、第二次大戦後まで徳川宗家が所有しました。
太刀 銘 正恒(蜂須賀正恒)[ふくやま美術館]
多くの刀工を輩出した備前で、特に平安時代~鎌倉初期に活躍した刀工を「古備前派」と呼びます。 正恒は友成と並び称される名工で、この太刀は古備前派の特徴をよく備えています。 阿波を治めた蜂須賀家の所有だったので「蜂須賀正恒」と呼ばれます。
短刀 銘 左筑州住(太閤左文字)[ふくやま美術館]
正宗の弟子「左衛門三郎(安吉・源慶とも)」は左文字派の初代で、左衛門の「左」の文字を銘として彫ったので、この一派は左文字派と呼ばれます。 太閤とはもちろん豊臣秀吉のことで、秀吉の没後は徳川秀忠に渡り、その後は紀州徳川家に伝わりました。
太刀 銘 則房[ふくやま美術館]
備前の福岡一文字派の刀工だった「則房」が、備中の片山に移り「片山一文字派」と呼ばれる刀工の一派となりました。 元は90cmを超える長大な太刀でしたが、短くする「磨上げ」をして現在は77cmほどになっています。 徳川5代将軍綱吉が、6代将軍家宣の次男誕生を祝って贈ったもので、徳川将軍家に伝来しました。
太刀 銘 国宗[ふくやま美術館]
備前の直宗派の刀工「国宗」は、北条時頼の招きで関東に移り、相州伝の始祖とされる新藤五国光に作刀を教えました。 この太刀も磨上げが行われていますが、「國宗」の銘は残っています。
太刀 銘 吉房[ふくやま美術館]
鎌倉時代の備前で、銘に「一」を刻むことが多く「福岡一文字派」と呼ばれる刀工一派の「吉房」による太刀で、一ではなく「吉房」の銘が彫られています。 徳川4代将軍の家綱から、後に6代将軍家宣になる甲府宰相の徳川綱豊の元服祝いとして贈られたものです。
展覧会 概要
日程:2023/2/4~3/19
時間:9:30~17:00
休館:月曜日
料金:一般¥1,000、高校生以下無料
ふくやま美術館 公式サイト
福山市で観られる国宝
このエリアは、鎌倉~室町時代に草戸稲荷神社と明王院の門前町「草戸千軒町」として発展し、貿易のh主要地として栄えましたが、度重なる洪水で水没してしまいました。 草戸千軒ミュージアムには出土品などが展示されていますが、芦田川に近い愛宕山の中腹にある「明王院」は当時の遺構が残っています。
元応3年(1321年)に建立された国宝『本堂』は、日本独特の建築様式「和様」に、当時日本に伝わって間もない「大仏様」「禅宗様」の特徴が取り入れられた「折衷様」で建てられています。
本堂よりやや遅い貞和4年(1348年)に建立された国宝『五重塔』は、僧の「頼秀」が一文勧進の少資を積んで建てられたもので、1文を現代の価値にすると数十円ほどと庶民でも喜捨できる金額だったようです。 今流行りのクラファンで建てられたようなイメージですね。